Blue Moon Redux

社会、テクノロジー、心理学、経済とかその辺。

「暴力的な男性にはより多くのセックスパートナーがいる」のか

「暴力的な男性にはより多くのセックスパートナーがいる」との研究結果 - GIGAZINE

Brains, brawn, and beauty: The complementary roles of intelligence and physical aggression in attracting sexual partners - Seffrin - 2021 - Aggressive Behavior - Wiley Online Library

この記事と元の論文を読んで思うところをいくつか。

まず、女性がsexually attractiveに感じること(「モテる」こと)、とパートナーとなることは分けて考えるべきだ。

また、いっときに付き合っている女性が多いことは、必ずしもその男性が「暴力的だからモテている」ことを意味しない。というのも、単にその男性がより多くの女性にアタックしているということかもしれないし、セックスへの関心が強いからより色々な工夫や勉強をするのかもしれない。

これはつまり、パートナーが多いことと男性が暴力的であることは、単に疑似相関である可能性がある、ということだ。実際に重要なのは暴力的であることよりも性への関心の強さなのかもしれない。そして、暴力性と性への関心の強さはどちらも「男性ホルモン」と呼ばれるテストステロンの量と関係しているので、本当に相関関係があるのはテストステロンの量と「モテる」ことなのかもしれない。

異なる観点。元の論文はしきりに進化的な観点への結びつけをしようとするわけだが、これは難しいのではないか。というのも、そもそも現代社会においてより多くの数の女性(男性)とセックスすることは別に「適応的」ではない。むしろ、様々なリスクが伴うし、コストもかかる。後は、intelligence は負の相関があるというのも、上記と関係しているだろう。Intelligence が高いほど、多くのパートナーを作るのはよくないことだとか、倫理面でのコストを考慮したりする人がいるだろう。

「所属本能」はFACTFULNESSの最大の敵

ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS』という本には、データを見たり、情報を解釈するときに気をつけるべきとされる10の本能が出てくる。

 

- 白黒で物事を捉えてしまう「分断本能」

- 今の変化が今後も継続すると考えてしまう「直線本能」

- 鮮明にイメージできるものほど危険度が高いと考えてしまう「恐怖本能」

などだ。

 

ただ、この本では扱われていないが、現代人が情報を取得し、解釈するときにもっとも気をつけるべき本能は、「集団本能」や「所属本能」とでもいうべきものかもしれないと思う。集団本能とは分断本能の亜種のようなものだが、「俺の側」と「あいつらの側」を白と黒で分けて考え、あいつらの主張はすべて間違っていて、俺たちの主張はすべて正しい、と考えてしまうことだ。この本能に取り憑かれると、自分や自分の属する集団の価値観に合致しないデータや主張はすべて無視することになり、結果事実にもとづく判断が下せなくなってしまう。

 

この本能は「俺たちの側」と「あいつらの側」で世界を分ける点で分断本能の亜種だと言えるが、しかしFACTFULNESSで扱われているような、世界には「富める国」と「貧しい国」がある、といった個々の事実を白と黒で分けて判断することよりもはるかに影響範囲が大きい。というのも、ある「側」に付くことはその側が受け入れるさまざまな事実や主張をすべて受け入れ、さらにその色眼鏡で、入ってくるすべてのデータや情報を解釈することになるからだ。「私は左翼/右翼だ」、と表明することは同時に「私は野党/与党を支持する」、「私は人権問題に特別関心がある/ない」、「日本は変わるべきだ/べきでない」、などなどさまざまな信念を持っていると表明することになる。少なくとも、多くの人からそういう信念を持っているのだろう、と思われることになるのだ。

 

強いイデオロギーは、FACTFULNESSの最大の敵ではないだろうか。

『功利主義入門』読書メモ

 次の本を読んだのでメモ。

児玉聡著『功利主義入門』

 

- 功利主義の原則は、「最大多数の最大幸福」である。これは基本原則として採用するにはよいもののようにも思われるのだが、一方で実際の意思決定にどこまで役立つのか、疑念もある。それは結局のところ、「最大多数の最大幸福」をどうやって算出するのか、という点が不明確だからだ。例えば政策決定にこの原則を当てはめようとした場合、ある政策Aと政策Bのどちらがより多くの幸福をもたらすのか、どうやって計測するのだろう。仮に短期的にはAの方が幸福をもたらすと考えられるとしても、長期的にはBもAと同じかそれ以上の幸福をもたらす、という場合もあるだろう。時間的変化などを考慮しつつ「最大幸福」という曖昧な指標を計測するのはかなり難しいことのように思える。そのため、結局のところ最終的にはGDPなどのより具体的な指標を使う必要が出てくるのではないか。

 

 

> 非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成と言う。

- そうなのだが、「幸福になるために通常は必要だと思われる選好」という言い方は正しいのだろうか。女性差別が当たり前に行われる社会に生まれた女性は主観的な「幸福度」でいえば、彼女が適応的選好を形成する限りにおいて、幸福であることに変わりはないだろう。そうではなくて、構造的差別の問題点は人権の制限そのものにある、という必要がある。そして、差別の対象となっている人々は、自分たちがそのように劣等な環境に置かれている、ということに気づき、社会的な騒乱が生まれるリスクもある。または、ある人が別の環境での状況を知ったときにもそれをうらやんだりしない、という基準も考えられる。

 

- 著者は、政府の役割を不幸を最小化すること、つまり最低限のインフラの整備を行うことに集中すべきだとする。そして、あとは個々人の自由にまかせるのがいいのだという。だが、実際には不幸を減らすことにもさまざまな政策的介入が必要になるだろう。例えば、格差や相対的貧困の問題を考えてみよう。格差が広がれば相対的に貧しい人々が増え、そうした人々は不幸・不満を抱えることになるのだから、彼らを支援することはだとうだ。だが格差を減らそうとすれば、累進課税など富裕層への課税を実施することになる。誰かの不幸を最小化しようとすれば、誰かの幸福を損なうかもしれない。最低限度の整備を行うことにも、それなりの介入を行う必要があるかもしれないのだ。

インプットを減らし、アウトプットを増やそう - Robert Bjork

https://www.youtube.com/watch?v=_tsJyFBHezY

https://www.youtube.com/watch?v=t4VHdXRKRBY&list=PLCV729neGre7-vrwIa6qlydMHnfYundXI

 

さて、今回は予告通りRobert Bjork氏の学習理論についてです。

といっても、その大要は上のこれらの動画で言われている通りで、この記事では日本語でまとめてみるだけです。

Bjork氏はUCLAの著名な心理学者で、学習理論について様々な成果をあげています。(僕は彼についてedXのThink101の授業で知りました。)

そのBjork氏は、学習におけるアウトプットの重要性について強調しています。

彼の言うには、テキストを何度も読みなおしたり、マーカーでハイライトをしたりというのは、それほど効果的ではないそうです。

それよりもむしろ、例えばある章のまとめを作ってみたり、テキストとは違う例を考えてみたり、学習の成果を他人に話してみたり、何にせよ「アクティブな」学習の方が、パッシブな勉強姿勢よりも、高い学習効果を生むそうです。

他にも彼は、スペーシング効果についても話しています。これは、学習は空白(スペース)の期間を設けた方が上手くいく、というものです。例えば、一つの事柄についてあるテキストで勉強したら、しばらく間をおいてその間は別の科目について勉強する、といったことです。

また、学習において我々が陥る錯誤についても触れています。例えば、テキストを一度読み終えてもう一度読み直すと、当然ながら前よりもスイスイ読めるでしょう。これを我々は「自分はこれについて理解している」と思ってしまいがちです。しかし、Bjrok氏によると、これはプライミング(一度見た事柄が潜在記憶に残っていて、無意識的に影響を及ぼすこと)による認知錯誤であって、学習が定着していることの証左とはならないそうです。

 

この話には非常に納得したのですが、それは僕自身彼の話の内容に覚えがあって、自分がある事柄を理解した、と感じるのは、人に説明しようとしたり、自分でそれを発展させようと色々考えている時だったからです。そうした時には、曖昧に理解していたことについては調べ直さなければなりませんし、自分が本当に理解しているかどうかが試されます。

そんなわけで、アウトプットを増やすためにブログでも書こう、と思い立ったわけです。